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大鏡
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「鏡」には「歴史書」という意味がある。他に「今鏡」「水鏡」「増鏡」と合わせて「四鏡」と呼ばれる。平安時代の後期に書かれたと思われるが、作者は不明。老人が昔を思い出しながら語った話を、作者が聞き取ったという形式で話が進む。
次の帝、花山院の天皇と申しき。
寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にも知らせたまはで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道させたまへりしこそ、御年十九。世を保たせたまふこと二年。その後二十二年おはしましき。
あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壺の上の御局の小戸より出でさせたまひけるに、有明の月のいみじく明かりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ。」と仰せられけるを、「さりとて、止まらせたまふべきやう侍らず。神璽・宝剣渡りたまひぬるには。」と粟田殿の騒がしまうしたまひけるは、まだ帝出でさせおはしまさざりける先に、手づから取りて、春宮の御方に渡したてまつりたまひてければ、帰り入らせたまはむことはあるまじく思して、しか申させたまひけるとぞ。
さやけき影を、まばゆく思しめしつるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり。」と仰せられて、歩み出でさせたまふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日ごろ破り残して御身を放たず御覧じけるを思しめし出でて、「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、栗田殿の、「いかにかくは思しめしならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」とそら泣きしたまひけるは。
さて、土御門より東ざまに率て出だしまゐらせたまふに、清明が家の前を渡らせたまへば、自らの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝おりさせたまふと見ゆるは。天変ありつるがすでになりにけると見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束とうせよ。」と言ふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれには思しめしけむかし。「かつ、式神一人内裏に参れ。」と申しければ、目には見えぬものの、戸を押し開けて、御後ろをや見まゐらせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり。」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。
花山寺におはしまし着きて、御髪おろさせたまひて後にぞ、栗田殿は、「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参りはべらむ。」と申したまひければ、「朕をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれに悲しきことなりな。日ごろ、よく、御弟子にて侍はむと契りて、すかしまうしたまひけむが恐ろしさよ。東三条殿は、もしさることやしたまふと、危ふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤のわたりよりぞうち出でまゐりける。寺などにては、もしおして人などやなしたてまつるとて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守りまうしける。
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